商品の特徴
木箱はありません
元々、豪華木箱入りでしたが、このボトルを土産でもらった人、あるいは、その家族など近くの人が売りに出した時には、木箱は無くなっていました。
The Glenlivet グレンリベット 蒸留所
写真は、1824年に政府承認第1号蒸留所のあった場所。当時は、Drumin(あるいは Upper Drumin)ドラミン蒸留所と呼ばれていた。
1858年の火災で、現在のMinmore(ミンモア)に移った。
2018年に第3蒸留所が完成し、蒸留器は第1蒸留所8器+第2蒸留所6器+第3蒸留所14器=28器となり、生産能力が年間1050万リットルから年間2100万リットルと倍増し、スコットランド最大の蒸留所となった。
スコッチモルトウイスキーの中でこれこそが典型的なウイスキーといえる"THE WHISKY"、それがこのグレンリベット。
グレンリベットはスペイサイドの特別な場所です。
ゲーリックの翻訳によれば、この名前の意味は「スムースな流れの谷」です。この名前を付けた人たちはリベット川を引用している可能性が高いようです。このリベット川はラダーヒルズに高く浸み出し、曲がりくねってエーボン川に流れ込んでいきます。しかし、数世紀の間流れ続け、もっと人気があるものが何かと言えば、それはウイスキーです。
19世紀の初め、重税によって違法な蒸溜が広まった時に、岩の多い山頂や切り立った山合いが、当局から隠れたいと思う密造業者に完全な隠れ場所を提供しました。
もし密造業者に聞けば、リスクを冒す価値は十分ある、ここで蒸溜されたウイスキーは最高のものだと言ったことでしょう。グレンリベットのウイスキーを、キングジョージ4世が1822年にスコットランドを公式訪問した時に名指しで所望しました。ほとんどの人は王様が違法な飲み物を要求したことにショックを受けました。ジョージ・スミスという名前の地元の男はショックを受けず、チャンスと捉えたのです。
農場で育てられ社交家として訓練されたジョージ・スミスはビジネスマンであり、かつ起業家であったため、違法な蒸溜器オーナーを手本にしてまねることはありませんでした。1824年に彼は蒸溜酒製造業者のライセンスを取得し、政府に注意を受けることなしに製造と売買を行うことができました。密造業者達は、ジョージは自由にビジネスを行えるのに、自分たちが依然として活動を隠さなければならないことに激怒しました。
この怒りがジョージの蒸溜所への暴力行為と脅威として表面化し、そして彼の命へと向けられ、ますますエスカレートしていきました。対して、ジョージは反撃しました。彼がアバーラーのレアードからもらったピストルを携行していたのは有名です。彼は自己防衛のために何度となく発砲しています。
ジョージ・スミスは1871年に亡くなりましたが、彼の遺産は、その息子で蒸溜所の後継者であるジョン・ゴードン・スミスの中に、樽の中のスピリッツと同じように生き続けました。
ジョンの最初の仕事は、スペイサイドのシングルモルトの利権を悪用していた人々から遺産を守ることでした。配送船の水夫たちが輸送の間に樽から吸い上げていましたし、競合の蒸溜酒製造業者は自分のボトルにグレンリベットのラベルを貼っていました。
1876年にジョンは模造品の製造に終止符を打つために、グレンリベットの名前をトレードマークに申請するための申請をしました。長年の法的な論争の末、訴訟は解決し、ジョンは、そのウイスキーを「ザ・グレンリベット」と呼べる占有権を勝ち取りました。ジョージ・スミスのウイスキーである“本物のグレンリベット”だけが、 定冠詞“THE”をつけることを許されたのです。このシングルモルトウイスキーがすべての始まりだったことの証です。
ジョンの2人目の甥の息子であるキャプテン・ビル・スミス・グラントが1921年に蒸溜所を引き継いだ時、彼は既に紛争をかなり経験していました。第1次ゴードン・ハイランダーの兵役を務める間の1916年に負傷した後、次の年に連隊に復帰しアラスで戦い、そこで2度目の負傷をしました。その「襲撃隊の指揮を執る際の任務に対する際立った勇壮さと献身」によって彼は戦功十字章を授与されました。
グレンリベットにとって幸運だったのは、キャプテンの任務への献身が戦場だけに限定されなかったことです。1932年に、Distillers Company Ltd.による法的措置によってスコットランド全体がシーズンを通して閉鎖されました。スミス・グラントの忍耐力のおかげで、グレンリベット蒸溜所は、業務を続けることのできた数少ない蒸溜酒製造会社の一つでした。
禁酒法が1933年にアメリカで解除され、翌年に取引経路が再開されました。グレンリベット蒸溜所は営業を続けていたため、この利益の多い大西洋の向こうの国のチャンスに投資する理想的な位置に居たのです。プルマン電鉄会社がザ・グレンリベットのミニチュア瓶のサービスを始めました。最高のシングルモルトを入手することが出来ないでいた中西部の通勤客により、列車の速度より早く噂が広まりました。
1950年までに、ザ・グレンリベットの売上は、アメリカでのスコッチ・シングルモルトの売上全体の半分を占めました。
HISTORY 歴史
1774年 Andrew Smithが Upper Drummin アッパードラミン蒸留所で蒸留を開始
1817年 George Smithが父親から事業を受け継ぐ
1824年 政府公認第一号蒸留所として認可される。
1840年 George が Delnabo 農場を買い取り
1845年 George が Minmore 農場とNevie 農場を賃貸する
1850年 George が近郊の Delnabo に第2蒸留所を建設
1858年 Drummin 蒸留所が焼失、Minmore 農場を買い取り
1859年 Delnabo 蒸留所閉鎖、Minmore で建設された新蒸留所の名称をGLENLIVETに変更
1871年 George Smith 逝去、息子 John Gordon Smith と孫 George Smith Grant が後を継ぐ
1881年 George Smith Grant が GLENLIVETの名前を無断で使用する他の農場を訴える
1884年 George Smith Grant に The Glenlivet の単独使用権が認められる。
1890年 火災のため建物を一部を修繕
1896年 蒸留器を2器増設し、4器とする
1953年 Glen Grant と合併
1966年 フロアーモルティングを取り止め
1970年 Longmorn-Glenlivet 蒸留会社と Hill Thompson 社と合併し、The Glenlivet Distilleriesを結社
1978年 カナダのSeagramが4,600万ポンドで買収
2001年 Pernod-Richard がシーグラムのスコッチウイスキー事業部門の Chivas Brothersを買収
2005年 The Glenlivet Nadurra16年を免税店で発売開始
2007年 The Glenlivet XXV 発売開始
2010年 Chivas Brothers がグレンリベット蒸留所を75%増設し、年間1,000万リットル(Pure Alchol)製造可能となる。
2013年 The Glenlivet Alpha 発売開始
2014年 The Nadurra ブランドに、First Fill SelectionとOlorosoを追加
2015年 The Glenlivet Founder's Reserve 発売開始
2018年 第3蒸留所が完成し、蒸留器は第1蒸留棟8器、第2蒸留棟5器、第3蒸留棟14器の計28器となり、生産能力が2010年に比べて倍増の2,1000万リットルに増大し、スコッチ最大の蒸留所となっている。
1日7回仕込で、24時間稼働している。
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