商品の特徴
TEELING WHISKEY Co. ティーリング・ウイスキー社
ティーリングウイスキー社はアイルランドのダブリンに本拠を構えるインディペンデントボトラー(独立瓶詰業者)です。
アイリッシュウイスキー業界にアイルランドの“独立”の気運を再び取り戻そうと、当時のクーリー社の社長であったジョン・ティーリング氏が、ハンドクラフト&スモールバッチのアイリッシュウイスキーを作るべく、クーリーを離れて2012年に設立しました。
アイルランドの蒸留所と樽の供給に関する契約を結び、使用する樽を長期にわたり確保することに成功。
しかし、その後の展開を考え蒸留所の建設にも着手し、ようやく2015年9月に正式にオープンしました。
ティーリング家はダブリンでウイスキーの生産が盛んだった1700年代に既にウイスキーの蒸留所を所有していましたが、ダブリン市内の蒸留所がすべて閉鎖されてから約125年ぶりに稼動を始めたのがこの新しいティーリング蒸留所です。
1987年:ジョン・ティーリング氏がクーリー蒸留所を設立
2012年:アイリッシュのボトラーズとしてティーリング・ウィスキー社を設立。
ティーリング家は1782年にダブリンに蒸留所を創業した古い家系。『先祖のウォルター・ティーリングはダブリンでは名の知れた蒸留業者。
かつての蒸留所はリバティー地区のマローボーレーンにあった。
ティーリングウイスキー社はアイルランドのダブリンに本拠を構えるインディペンデントボトラー(独立瓶詰業者)です。アイリッシュウイスキー業界にアイルランドの“独立”の気運を再び取り戻そうと、当時のクーリー社の社長であったジャック・ティーリング氏が、ハンドクラフト&スモールバッチのアイリッシュウイスキーを作るべく、クーリーを離れて2012年に設立しました。アイルランドの蒸留所と樽の供給に関する契約を結び、今後使用する樽を長期にわたり確保することに成功。しかし、その後の展開を考え自ら蒸留することを計画します。ティーリング家はダブリンでウイスキーの生産が盛んだった1700年代に既にウイスキーの蒸留所を所有していました。そんな同家とゆかりがあるダブリン市内の有名なセントパトリック大聖堂から僅か500メートルの距離にティーリング蒸留所がオープンし、2019年にはついにティーリング蒸留所で蒸留された「シングルポットスティル」もリリースされました。
ボトラーズとしてアイリッシュウィスキーのボトリングを手掛けるとともに、2015年ダブリン蒸留所を開設、ダブリン・ウィスキーの伝統を引き継ぐ蒸留業者ともなっています。
Great Northern Distillery グレートノーザン蒸留所
グレートノーザン蒸留所は、ジョン・ティーリング氏(写真)が両蒸留所をビーム(現ビーム・サントリー社)に売却後に、クーリーと同じダンダークの地に2015年に新設した新蒸留所。
連続式蒸留器も設置してグレーンウイスキーも製造しており、他の蒸留所にグレーンウイスキーを供給している。
ポットスティル
連続式蒸留器
参考 BB&R アイリッシュシングルモルト 現行ボトル(2021年~)
2021年からこのボトルに様変わりしました。
BB & R ベリーブラザーズ & ラッド
BB & R ベリーブラザーズ & ラッド社は、1698年創業の英国最古のワイン・スピリッツ商です。創業以来300年以上もの間、同じ店舗で営業を続けています。
元々は食品、異国の香辛料、紅茶やコーヒーを扱う「コーヒーハウス」として開業。ワイン・スピリッツを商品の中心にしたのは1803年以降のことですが、今もなお、コーヒーミルの描かれた看板(写真)が店先に残っています。
ベリー・ブラザーズ&ラッドの創業は意外にも一人の女性によるものでした。
未亡人であり、最低でも二児の母であった事はまでわかっているものの、下の名前は知られておらず、記録上は姓名の「ボーン」のみが記載された、謎多き女性でした。ボーン婦人は1698年、その年に王室の主要滞在先となったセントジェームス宮殿の真迎え、当時のロンドンでも一等地と言われたセントジェームズ3番地でコーヒーやスパイスを販売する店を営み始めました。ボーン婦人の長女エリザベスがウィリアム・ピケリング(没:1734年)と結婚すると、嫁ぎ先のピケリング家が経営を手伝うようになり、3番地と、隣接するピケリング・プレイスの改装を行いました。現在のセントジェームス3番地の店構えはこの時に完成したと言われます。
ウィリアムの死後はエリザベスが一人で店を担い、エリザベスの死後は二人の息子が経営を引き継ぐ事になります。長男のウィリアム2世の母方の親戚で、ピケリング・プレイスを共に運営するビジネスパートナーでもあったジョン・クラークの孫、ジョージ・ベリー(当時16歳)がセントジェームス3番地の門を叩いたのは1803年。これが当社初の「ベリー」であり、1809年には彼の名前が店舗のファサードに冠されます。
エクセターのワイン商に生まれたジョージ・ベリー1世は、バックグラウンドを活かし、3番地の在庫をワイン中心へと切り替えていきました。コーヒーや紅茶の人気が落ちつつあった時代を先読みしたこの経営判断が的中し、1845年に二人の息子、ジョージ2世とヘンリーに経営が引き継がれます。「ベリー・ブラザーズ」が会社名に入ったのは、このベリー兄弟が経営を担った時になります。そして20世紀初頭にラッド家も経営に参加すると、フランシス・ベリーとチャールズ・ベリーの主導で「ベリー・ブラザーズ・アンド・カンパニー」として、ワイン及びスピリッツの専門商社として歩み始めます。ボーン婦人から続いたコーヒー輸入事業は縮小し、今ではセント・ジェームスの名所と親しまれた「コーヒーミルの看板」のみが残ります。
後にベリー・ブラザーズと協業するヒュー・ラッドは、ロンドンより北西に180kmに位置するノリッジで、1851に祖父が開業したワイン商を経営していました。第一次大戦前はボルドーを愛し、ドイツのワインにも精通し、ラッド商店に大きく貢献していたものの、前線から帰国してからは経営から退き、ロンドンに上京をしました。1920年にベリー兄弟と協業するようになって以来、会社は彼の圧倒的なワイン知識・経験を元に事業を拡大します。また1920年代は、アメリカの禁酒法下でベリー・ブラザーズのウィスキーが重宝されるようになり、会社にとっても変化に満ちた激動の10年となりました。北米の密輸業者が集まるバハマ諸島でウィスキー商としての立場を確率すると、1923年に販売を始めた「カティ・サーク」がアメリカで大ヒット商品となります。
第二次世界大戦時は爆撃での焼失を防ぐべく、創業当初から現存していた本社の家具やワイン在庫の一部が地方の租界先へと運ばれました。しかし備品こそ守れたものの、ベリー家、ラッド家からも戦死者が出てしまいます。フランシス・ベリーの長男、ジョージ・ギルバート・ベリーは北アフリカで部隊を率い、勇敢な突撃の末に命を落とします。またヒュー・ラッドの息子、ブライアン・ラッドも20歳という若さでイタリアで戦死し、この当時多くの英国人を巻き込んだ大戦の傷跡が、当社にも深く刻まれる事となりました。
1950年以降はフランス・ベリーの次男、アントニー・ベリーがパートナーとなり、ヒュー・ラッドの妻であったイーセル・ラッドが会長に就任します。1965年に会長の座をアントニーに引き継ぐまで、その職務を果たします。戦後間もないこの時期の英国において、同族経営の企業を売らなかったという意味では、非常に珍しいケースだったと言えるでしょう。
20世紀後半は、世界有数のワイン&スピリッツ商としての地位を固めた半世紀でした。また「カティ・サーク」の継続的な成功も、この成長を後押しする大きな要因でした。長年セントジェームスの住人に愛されたクラレット、ブルゴーニュワインも好評で、その人気は世代を跨ぐ物となっておりました。
ベリー・ブラーズ&ラッドは、そんな好調な中でも守りに入らず、挑戦を続けます。1967年に競合他社を差しおいて、温度管理されたワイン保管施設をロンドン郊外のベージングストークに建設、今では850万本に及ぶお客様のワインがこの巨大倉庫に保管されています。一方で貫いた伝統もあり、1990年代に最後のシェリーを梱包するまで、自社でボトリングも続けました。
また、戦後は顧客の国際化も進みました。1994年にウェブサイトを設立した後、ロンドンのヒースロー空港への出店を皮切りに、香港ワインクラブの設立という初の海外挑戦が続き、1998年にはアイルランドのダブリンに初の海外店舗を設けるに至りました。
21世紀に突入する2年前の1998年、ベリー・ブラザーズ&ラッドは300周年を迎えました。300年という節目にあたり、前年の1997年には当時のチャールズ皇太子から当社2つ目となるロイヤルワラントが贈られました。
アジアでのプレゼンスも高まった20世紀。日本、香港に支店を設立した後、2013年は英国で初めて中国からワインを輸入する業者となりました。
ロイヤルワラントを2つ、3人のマスター・オブ・ワインを有し、300年もの歴史を持つ当社は、英国屈指、世界規模のワイン商と言えるまで成長を遂げました。革新を惜しまない一方で、必要な伝統を守ってきた当社ですが、今日も宮殿の向かえのセント・ジェームズ3番地、ボーン婦人が建てたこの場所で営業を続けております。ジョージ3世の時代より王室御用達として行ってきた丁寧な、飲み頃のワインをご提案を、一本単位、セラー単位のお客様問わず提供し続けます。
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